壱岐名勝図誌 解 説

山内 益次郎

『壱岐名勝図誌』は、序によると嘉永三年(一八五〇) 前藩主松浦乾斎(熙)が、後藤正恒とその弟吉野尚盛(図絵担当)に著作を命じ、十一年後の文久元年(一八六一)に完成したものという。『壱岐郷土史』(大正七年・後藤正足著)には、藩公は「その労を多とし、正恒に時服を給して之を賞し、後、馬廻格を与ふ」とある。後藤氏は中世南朝方に属した菊池氏の子孫で、代々壱岐島諸社の神職であった。

『壱岐名勝図誌』の伝本としては、完本には旧松浦伯爵家所蔵本と内閣文庫蔵本があり、壱岐郷土館所蔵本は九冊欠けて現在十六冊残っている。岩瀬文庫蔵木は図絵が全く無く、文章も抄出で十冊に圧縮されている。これまでに版本または飜刻本は無いが、長島重義氏によりガリ版印刷が行われた。壱岐郷土館本は、壱崎芦辺町の高御祖神社の神職であった菊池氏(後藤氏と同系)が所蔵していたものを、十数年前郷土館に移管されたものである。旧松浦伯爵家蔵本は、長崎図書館(山口文庫)の写真複製によると、「松浦伯爵家蔵書」の印があるが、巻末の識語、書写者名等は見られない。壱岐郷土館本と旧松浦伯爵家蔵本を比べると、記述内容・順序・絵図等にある程度のちがいが見られる。その主なものは、つぎのようである。
巻一  「郷村の説」雪宅麿追悼歌三十六行(壱岐郷土館本にない)
巻四  「国分寺」大般若経について二十八行(旧松浦伯爵家本にない)
巻五  「阿弥陀寺」元亨釈書引用三十三行(同前)
巻十四 「西光寺」大乗経について約三十行(同前)

全体としては壱岐郷土館本の方が記述羅が多く、前例の外にも短い異文は随所に見られる。図絵は旧松浦伯爵家本の見開ぎニページのものが、壱岐郷土館本では一ページになっているものがあり。また旧松浦伯爵家本には人物遠景等が添えられた絵が多く、図絵中の詩歌字句も概して多い。図絵は旧松浦伯爵家本の方が精巧細密で、壱岐郷土館本は線が粗く、スケッチ風のものが多い。字体は旧松浦伯爵家本の方がていねいである。

内閣文庫本の書写については、同文庫所蔵の『壱岐国続風土記抄』の凡例に、「(続風土記は)松浦詮(最後の藩主、乾斎孫)ノ蔵書ヲ出サシメテ抄写ス。名勝図誌モ亦同人蔵書ナリシヲ謄写シテ本課(地誌課)二備フ」とあり、同文庫所蔵の壱岐名勝図誌の巻末には、「明治七年六月校正卒業中祁元起」の識語がある。いま旧松浦伯爵家蔵本と内閣文庫所蔵の名勝図誌を比較してみると、巻数・丁数・一丁の行数等ほとんど同一で、一行の字数もほぼ同数である。(ただし「也」と「なり」、「廿」と「二十」のような表記のちがい、「時」→「特」、「植」→「桓」のように朱で訂正したもの、「牛」→「井」、「発」→「療」のような誤写、「ごとし」「妥」の脱落等、両書の異文がわずかながら見られる)。図絵の場合も、構図・風景・人物・物の形をはじめ、画中の字句の内容・字数・行のわけ方等、細部に至るまで一致している。このように両書は極めて相関度の高い本であって、内閣文庫本の親本となった松浦詮所蔵の本というのは、おそらくこの「松浦伯爵家蔵書」の印のある名勝図誌を指すものと思われる。ただ、この旧松浦伯爵家所蔵本が作者自筆本であるとはにわかに断定できない。この本の巻十・池田村の薬師丸条に「建〇(徳ナランカ)二年正月」とあり、また同じ条に「下地於彼代之状如件」とあって、「於」の右側に「本ノマ、」と傍注がある。これでみると、この旧松浦伯爵家蔵本は明治七年(成立後十三年)以前に、作者以外の何人かの手によって書写されたものとも考えられる。

『壱岐名勝図誌』は、凡例に参考資料として『厳島図会』( 天保十三年、岡田清編)や『壱岐国続風土記』(延享元年、吉野秀政著)を挙げているが、図絵や構想を前者に倣い、記述内容は後者に拠ることが多い。引用書は続風土記よりの孫引きを含めて百数十種に及び、続風土記以後の本(例えば「壱岐神社考」等)を引用したり、同じ本でも異った個所を引用した例(たとえば『見好書』の場合)等が見られる。その他作者の所説もあり、統計的数字の訂正や、独自の質料に拠ったもの(納屋手歌、薬師丸の土地譲状、藻焼飽の製法、郷の浦祇園山笠の由来等)が見られる。

全二十五巻中、第一巻は壱岐国総説で、「国名の伝説」「郡里の事」「郷村の説」等二十項目にわたって壱岐島の沿革歴史を述べている。第二巻以後は各村一冊宛で、それぞれに地図・文章・図絵があり、各巻の始めに概説的に村の区域・産物・地名の由来・里名・田畑の面積・戸数・人ロ・寺社の数等を挙げている。これらの地図や概説を見ると、この書が単なる名所案内記に止まらず、地誌的な内容をも盛ろうと意図していたことが察せられる。続風土記は、城・山・野・辻・坂・崎・流・堤……神社・仏閣と項目別に集められているが、名勝図誌の場合は地域別に行路の順に配列し、山野海浜等については代表的なものに止め、社寺名勝の記述に力を注いでいる。

第一巻の総説では壱岐島内の神社の数を八百三十六社と書いている。これらの数の中には、小社・石祠などもふくまれ、ただ所在地を示すだけのものもある。しかし、式社・国中大七社・官社・産土神等については記述が詳しく、就中、住吉神社聖母神社箱崎八幡白沙八幡等はもっとも詳細である。祭神としては伊弉諾尊伊弉再尊天照大神のような天つ神とともに、素釜嗚尊大己貴神奇稲田姫等出雲系の神も多く祭られている。神功皇后応神天皇等八幡社関係の祭神も多く、特に神功皇后の外征や出産にまつわる伝説を多く集め、八幡神の水先案内先鋒として住吉三神の武勇伝も詳しく語られている。延喜式神名帳には壱岐の神社が二十余社記載され、上古以来官社として国家的祭祀に与り、国の幣吊を受けていたのであるが、後世壱岐が封建領主によって領治されるようになっても、波多氏・松浦氏は知行を与え、社殿の新改築の費用を献じ、祭祀には国司代参が行われるのが常であった。

これらの官社が一村の公の祭祀の場であったのに対し、家や近隣の私的な信仰の対象であった稲荷荒神道祖神山神・地神・庚申・牛神・船魂神水神恵比須社・矢保佐祠等が数百社挙げられている。これらの神と人間との関わりを示す話は名勝図誌にも幾つか集められている。初山村の鏡岳大権現は、彦兵衛という農夫の篤信に彦山権現が感応して鎮座したという。池田村の七郎権現は、七郎という馬飼を祀ってある。七郎は奉行の検地の供をしたが、酒宴が長びき居眠りしていて、馬が稲を食ったため酷く叱責され、遂に馬を殺して自殺した。七郎の骸は馬とともに埋められたが、その後祟りがあったので神として祀ったのだという。祇園社は有安村の麦あらけ野の祇園社で述べているように、牛頭天王(祇園精舎の守護神)を祭ったものであるが、湯岳村の神石の祇園社は鎮疫のため勧請したという。牛神は牛頭天王の連想によるのか、その垂跡である素釜嗚尊を祭ることが多く、半城村の角上神社境内<津神社の誤記ではないか?>の牛神社は寛文十二年(一六七二)の牛疫流行の際、守護代や郡代の発議によって勧請されたものだという。道祖神又は幸神も各所に記述かあり、中郷の遠見岡の石神には通行人が石を手向け、国分村の古木道傍の柴神には枝葉を供えて行路の安全を祈ったという。船神又は船魂祠が島内に数社あり、立石村の加良神山には唐船の破損した船魂が祭られ、黒崎村の唐人神は唐船の難破した流霊を祭ってある。これらの異国の船霊は祟りを恐れて祭ったのであるが、信仰すれば効験があるという。疱癒神も数社あり、諸吉村の寄八幡宮は五島から田部に漂着して壱岐島の疱癒神となって里民を守護すると告げたという。このように生活に密着した八幡信仰もあったのである。天神も島内に十数社を数えるが、『見好書』には国分天神が疫病を払った話や、江戸の亀戸天神が疱療神となった話がある。文神・雷神としての天神の外に、疫神としての信仰があったことを示すものである。

寺堂の数は島を通じて三百七十八寺と書かれ、五本寺(竜蔵寺国分寺<年代的には現在の国分寺跡では?>安国寺華光寺・神岳神皇密寺)や阿弥陀寺・覚音寺・安楽寺等については、神社に劣らぬ詳しい記述がある。武生水村の華光寺の記述のなかには、波多氏が「天下泰平国家安全」を祈った文があり、豊臣秀吉の文禄の朝鮮出兵の際も、「出陣の首途の為御祈躊……」とあるが、寺の中にも官寺と称すべきものがあって、藩公や国家のため祈禰を行い、藩の知行を受けていたのである。安国寺の百石、国分寺の三十石等、藩主の国印状の写しが名勝図誌にも再々見られる。

寺院の記事の原拠としては、縁起(安国寺・覚音寺)寺院記(竜養寺・神岳山)、寺院所蔵の文書・鐘銘等が挙げられており、また寺院の位置・建物・仏像・寺伝等については、続風土記所引の壱岐梵刹帳によることが多い。この外、仏教説話・霊験談については『見好書』を引用している。これらの記述の中から、当時の仏教観をうかがうに足る幾つかの例を拾ってみると、立石村の覚音寺は行甚と王子五郎が千手観音を勧請して建立したものであり、その利生によって王子五郎の子孫は二十世に亘って繁栄した。長嶺村の玉泉寺の薬師十二神将は附近の山林の火事を消し、また盗まれた寺の布を取り返した。渡良村の釈迦浦には宋朝から釈迦仏が渡来した。同村の舟越浦の漁師は沖に出て、殺生の罪により地獄に堕ちた亡者の苦しみを見た。立石村の安楽寺の開山明室和尚は、生きながら石室に入り、七日後に入寂した、等がある。これらの話の中、最初の話は覚音寺縁起によるものであり、残りの四話は『見好書』を引用したものである。『見好書』は二巻二冊、華光寺第十一世住持猷山石髄和尚の著(享保十一年刊)で、『諸仏感応見好書』ともいい、観音・地蔵・弥陀・薬師・不動等の利生談や、行基・弘法・天神・熊野権現の霊験談等がある。壱岐関係の説話が約六十篇あり、外に日本各地の仏教説話、作者の体験談、夢想、法談等が集められている。続風土記にも多く引かれ、当時の壱岐島の仏教観や信仰の一端を示すものとして興味がある。寺院の本尊としては観音(百一寺)・地蔵(七十二寺)が特に多く、ついで阿弥陀仏・薬師仏・釈迦・不動・弥勒等の順である。観音・地蔵は宗派の別なく信仰され、各地に多くの堂が建てられていたが、島民は難しい教理よりも現世利益や後世の安穏を端的に願う寺堂を身近に求めていたのであろう。

神仏伝説の外にも百合若伝説・鬼の伝説・長者伝説・河童伝説・外寇伝説等があり、これらの伝説の中には壱岐島独自のものもあるが、日本各地の伝説と共通した内容を持つものがある。

壱岐の百合若伝説はほとんど鬼退治の物語で、中郷村の遠見岡や、初山村の遠見野は百合若が攻めて来た時、鬼が遠見(見張り)をした所だという。可須村の海松目(みるめ)浦も鬼と結びつけているが、見る眼に遠見を連想したのであろう。黒崎村の次郎礫・太郎礫は鬼が百合若に向って投げた岩であるという。可須村の集の辻は百合若が鬼を平治した後、帰順した鬼が蜷を集めて奉った所で、同村の甑小島は百合若が姫小松を植えた所、寝島は百合若が昼寝した所という。
百合若伝説とは関係のない鬼の伝説も各地に見られる。志原村には九鬼が矢を繰ったのでクキウラ(久喜浦)の名が生じたという伝説があり、国分村の経塚山は鬼を捕えて焼き捨てたところ祟りがひどいので、それを鎮めるため千部の経を埋めた所である、と述べられている。その他立石村の鬼石、志原村の鬼錨子野等、鬼に因んだ地名伝説が見られる。渡良村には鬼の足跡と称する凹みがあるが、これは鬼の伝説が巨人伝説に転化したものであって、同じような凹地を国分村では大(だい)の足跡と呼んでいるという。可須村の辰の島には大の踏みほがしという凹み<辰ノ島鬼の足跡>があり、新城村の舞峰池も同じく大の足跡と伝えられているという。黒崎村の鍋久保野の場合は大を訛って「デイ」の足跡と言っている。いずれも「大」が対馬や九州本士に渡るとぎ踏んだ跡と伝え、関東地方等におけるダイダラボッチ、デエラボッチ等の伝説と共通点がある。

名勝図誌には長者伝説の類が多いが、その中で伝説として首尾備わり、詳しく語られているのは諸吉村の長者原の話である。ある正直な老夫婦が毎年竜神に門松・年縄を奉っていたところ、竜宮に招待され饗応を受けた。辞去するとき、萩原という醜い童子を貰ったが、その童子のおかげで夫婦は若返り富み栄えた。後に童子を疎み竜宮に帰したところ、夫婦はもとの老人になり、財宝は尽き、家は没落してしまったというもので、日本各地に見られる竜宮童子の伝説の一種である。この外、中郷村の北国長者と西国長者、箇城村の和泉長者・蓬莱長者、石田村の飯間長者、半城村の頼母長者、住吉村の楠長者、新城村の亀振長者・ゆくら長者・長山長者等の伝説が集められている。前に述べた立石村の王子五郎が高嶽に財宝を埋め、「朝日さす夕日輝く木の下に……」と和歌を詠んだというのは、いわゆる朝日長者型の類型伝説である。武生水村の斎藤清左衛門・殿川伊勢守等も伝説の域を出ないもので、後者には異類求婚謡(蛇女房)が付会されている。渡良村の宝藤十郎左衛門は本綿浦を甚地にして海運貿易に従事し、莫大な富を所有し、家僕の家が千戸も軒を連ねていたという。話が大袈裟であるが、名勝図誌作者は、西光寺で十郎左衛門寄進云々の五部大蔵経を見ているので、同名の人物が居たのは事実であろう。

妖怪変化諏も各地にある。川北村の皿川淵の河童は、淵の石を人に取られたので怪異を働き、布気村の生池の河童は、人を生取りするので水神として祭った。半城村の馬田池の河虎、住吉村の果淵の河童は、馬を捕えようとして却って馬に殺されてしまった(河童駒引伝説)。また箱崎村の鱸淵の河童は、度々人に悪戯をして人に捕えられ、以後人を襲わないという証文を書かされた(河童の証文伝説)。湯岳村の姥落山には天狗が老女を空中から落し、新城村の野口山には、天狗の運んだ石で造られたゆくら長者の娘の墓があるという。

動植物・鉱物の生霊譚も幾つかとりあげられている。湯岳村の鷺城は、鷺の生霊によって空中に舞い上っていたが、鷺が志原村に移り棲んだのでその機能を失ったという。箱崎村の五百鳩山の鳩は、八幡神の神矛を烏帽子島に羽であおぎ送ったという。黒崎村の須美山の牝馬に竜がつるんで名馬磨墨が生まれ、鯨伏村では昔鯨が鰐に追われて入江の中に隠れ伏したのが石と化し、半城村の亀石は、かつて角上大神が乗った亀が石と化したものだという。石田村の踊川の松には小人が棲み、その木を切ることを妨げ、暴風のため倒れたのを引き起したという。また武生水村の亀尾城<現:亀丘城跡>の堀切石からは血が流れたので動かすことを禁じ、箱崎村の亀丘山と鶴丘山は、自然に寄り添ったのでその間を掘ったところ、血が流れ出たという。

壱岐島特有の伝説としては、かつて島が二つに分れていた話と、外寇譚とがある。前者はその境界が清石浜・高尾・堺・鯨伏・牛方・半城海田の辺であったと説き、中郷村の堺、湯岳村の船橋川・伝九郎池、深江村の津合橋・大豆喰石、池田村の飽池、半城村の津神社・ベベ津、物部村の壱岐渡、住吉村の和布瀬・鯨伏、長峯村の浮瀬・帆畑、立石村の鯨伏田・潟長江・覚音寺等に、昔の海の遺跡や海に因んだ地名があることを述べている。潟長江の記事の中には、壱岐島が現在のように―つの島になったのは、永仁二年(一二九四)四月の大地震によるものであると述べているが、史実としては如何であろうか。

外寇に関する記述は、歴史的事実に基づいたものが多い。中でも刀伊の来襲と元寇は国家的大事件で、島の死活に関することであった。刀伊の侵攻についでは、第一巻の総説で『日本紀略』等を引用して国守藤原理忠の戦死と島民が寇掠されたことを述べている。文永の役については、新城村の「樋詰城<現:樋詰城跡>」の項で、守護代平経高外城兵の戦死の状を述べ、弘安の役については、総説では蒙麗軍と伊岐成末等の戦いの状況(「吉野家譜」引用)、箱崎村「瀬戸浦」の項で、松浦党・彼杵・千葉・高木・竜造寺諸氏の瀬戸浦奮戦(「歴代鎮西要略」引用)を述べ、尚「船匿城跡」の項で、作者自身元寇戦跡の考証を試みている。

「以上の外、本宮村の火簡野と軍場野の項には、高麗の賊の来襲談があり、初山村のかまへの本、可須村の本浦城趾への異賊襲来、池田村の平瀬、黒崎村釈迦堂への海賊来寇等の記述があるが、いずれも年代その他詳細不明である。変った外寇としては元亀二年( 一五七一)の対馬勢の浦海侵攻が述べられている(本宮村「浦海山」外)。この時は壱岐側は策を用いて対馬勢を破り意気大いに上った。豊臣秀吉文禄の朝鮮出兵は、壱岐島にとっては一種の外寇であった。石田村の寿福院、物部村の金谷寺、立石村の覚音寺、渡良村の国津神社等に軍兵が入り、仏像・仏具・神輿等を盗み、壊し、焼いた。これらの暴徒は、神仏の罰を受けたり寺僧に討たれたという。布気村の射辻山では、凶兵が女童を犯すので防ぎ矢を射たという記述もある。もっとも、文禄戦談はすべて外寇談というのではなく、諸吉村の隈小十郎や箱崎村の山本弥三郎等の武勇談も録されている。

この図誌には、産物・風俗・作業唄等についての文章や図絵も見られる。各村の総説に農漁産物が挙げられ、また諸吉村の鮑・蛤・大根、川北村の鮒等の如く図絵に描かれたものがあるが、とくに可須村の田ノ浦、箱崎村の恵比須浦の鯨組の捕鯨の状景や、納屋・漁場等の図絵は、平戸生月の「勇魚取絵詞」に類するものであり、田ノ浦の納屋手歌が採録されているのも興味深い。この歌の中には鯨組特有のことばが多く入っているが、大体次のように読むものと思われる。

ソレ組ハ 冬組春組 セミザトウ ナガス小鯨花 花出シャ 子モチッレ魚 白ナガス ハサミ子モチ タッハ立 七ヒロ物ニゾウモノヤ サテサテ名所 数多シ ハシサニズリニ 山ノカワ コロモクロ皮 シキ胴ミ アカミゾウホネ スジヒゲヤ タッハオバイキ サャニギリ ノドワタケリニ 貝ノモト カラギモマデモ スタリナシ(以下省略)

方言として歌えば、連魚(ツレイヲ)・立羽(タッパ)・雑物(ゾウモン)・尾刷毛(ヲベーキ).勘太郎(カンダラ)・大エ(デーク)・大切(テーギリ)•前細工(マニゼーク)となる。この歌の内容は組の名、鯨の種類、肉の名称、組の役職、作業の分類・道具等を物尽くし唄にしたものである。鯨組のはざし唄は、生月・長崎・五島・佐賀県・山口県等に同類の唄がある(文部省編「俚謡集」・同続編、岡田陽一編「全長崎県歌謡集」等参照)。しかし納屋手唄の類歌は見当らない。

『壱岐名勝図誌』は、山水寺社の真景を写し、歴史・故事・風俗・詩歌・伝説等を録して、壱岐を世に紹介し、後世に残そうとする趣旨のもとに編述された。当時の建築物や器物・文書・風俗等はもちろん、道路や地形そのものが開発によって変貌しつつある現在、当時の実景を知る手がかりとなるとともに、当時の風俗・信仰・世相・伝説等の一斑を集録して後世に残した点でも、此の本の価値は小さくないものと思われる。