当村ハ和名抄に所載の箆原郷に属せり。東西(東ハ志原界当田川、西ハ武生水界円臍に限。)二里はかり、南北(南ハ海に臨み、北ハ志原界双六に限。)壱里はかり、周囲四里半はかり、邑南向、八風当、水田半ハ旱、風損地。陸田半下、風損地。大小麦・大小豆・粟·稗中、稲・菘・蕎麦・麻・木綿・胡麻下、和布・搗和布・海松・海鹿毛・布苔・甘苔•松苔・霊☓子(ウニ)・石陰子(カセ)・蛸・鰒の類多し。○郡鑑云、初山村南向地広く土地中、何風も当り、大小麦・大豆・粟上、米・辛子・小豆・蕎麦・稗・麻・木綿下。一云、初山ハ国の南にありて武生水に近く、南ハ滄海渺々として三方に野ありて広平の地、水田少く火田やせたり。邑を初山と称すること、古老の説云、民居のはしめ八幡宮鎮座、其後初島大明神鎮座あり。是等の神地より山たちはしまりし故に初山といふと。今称する里の名、
本村、鋸岬、平床、大米、初瀬(ハセ)、湯舩、若松、嶽、坪、神崎
水田 古新合三十八町三反三畝八歩
高三百九十六石六斗弐升八合
火田 古新合八十四町二反七畝十九歩
高三百七十石五斗九升五合
神社 三十三社。内一社本社、同一社式社、同一社廃社。
仏閣 十所。内四ヶ所寺、同一ヶ所末堂廃地。
民戸 四百姻
ロ員 一千四百八十八人(内 男7百八十九人、女六百九十九人)
牛 五百十八頭
堤 八所
庄屋 (午未向)
地神 (在木下 庄屋の地也。)
石祠 (東向)
境内(東西五間余 南北十二間余 周囲四十八間余)
八頭 (国中八所の其一也。今坂口氏居住り。)
乙宮大明神 在大里八頭 例祭十一月十六日
祭神国狭槌尊・豊料浮尊
小祠 (丁未向 桁壱尺九寸 梁二尺七寸八分 板葺)
上屋 (桁五尺 梁同上 瓦葺)
境内 (東西六間 南北十六間 周囲五十五間半)
横岳山永林寺 (属本村)
本尊釈迦座像、長六寸五分、寄宿観音坐像、長八寸一分 (西の観音堂廃せし故、当寺に寄宿也。)
客殿 (未向 桁五間二尺五寸 梁四間 庫裡トモニ 瓦葺)
境内 二畝廿八歩
内寺地 (竪八間 横五間)
寺領晶四畝、高四斗
当寺ハ如意山末寺也。梵刹帳云、初山村横岳山永林寺、天正十壬午年劫林源永大禅定門(日高外記)開基云々。一伝、開山清月泉公首座云々。
初島山南明寺 (属本村)
本尊地蔵大土座像、長壱尺一寸四分。
客殿 (午未向 桁五間半 梁四間半 茅葺)
廊下 (桁二間 梁九尺 瓦葺)
庫裏 (桁五間半 梁四間半 茅葺)
境内 六畝十七歩半
内寺地 (竪十三間 横十二間)
同山 (竪廿間 横二間 運上山)
寺領畠三畝廿八歩、高四斗 (有寺地中)
半鐘 (高二尺九寸七分 亘壱尺四寸五分 寛永二乙酉六月掛)
什物
法華経古本 (三四五 六七)唐板破本也。
当寺ハ如意山末派にして、前鴻臚卿大円広覚居士(日高氏)開基と云。(慶長年間の人也)又云、明応元壬子梅岩と云僧開基すと。
阿弥陀堂 (在境内)元辻と云所に建しを、中葉寺地に移せしとそ。
本尊立像、長二尺、脇士観音・勢至各立像、長壱尺三寸三分。
堂 (桁二間 梁九尺 茅葺)
地神 (在下川) 神木松一株あり。
当社の傍に石祠あり。当村の神主長田氏の先祖を祭れるとそ。
白久(シラギフ)浜 白牛トモ書
志自岐大明神 (在白牛)
祭神日本武尊・吉備穴戸武媛・十城別王・武鼓王・稲依別王・布忍入姫命・稚武王・稚武彦王也。
御祠 (巳向 茅葺)
境内 (竪艮坤二十二問 横巽乾八間半 周囲五十三間)
荒人神 (同所)
幸神 (同所)
荒人祠 (在西) 称妙君大明神トモ
祭神 大己貴神
社大明神 (同所)
同社 (在横小路)
祭神八千文神
爾示八幡宮 (在西 例祭八月十八日)
中殿誉田天皇、左殿足仲彦天皇、右殿気長足姫尊
御殿 (辰向 桁六尺八寸五分 梁壱丈四寸二分 三方広縁附 柿葺)
上屋 (桁二間半 梁三間四寸 茅音)
廊下 (桁五尺五寸二分 梁壱間 板葺)
拝殿 (桁三間 梁ニ間)
稲荷社 (在境内 元文年中、村中より鎮座。)
小社 上屋(桁五尺 梁四尺)
石鳥居 (去拝殿七間 竪壱丈二尺 横七尺七寸三分 貞享四丁卯年十二月建立)
境内 (東西廿四間 南北十四間 周囲七十九間余)
馬場 (竪廿七問 横四間四尺)
当社ハ昔ハ村中の本社なりしといひ伝ふ所なり。然りといへとも今ハ末社に列す。寛文七年宝殿再建の棟札に、爾示八幡宮と書記(シルシ)たり。○神社帳に西八幡云々と記し、又承応の旧記に、当社を式の爾自神社とかきたるハ能かなひたる歟。毎歳八月十八日鋸の浜に神幸なし奉れり。
初島大明神 (在本村西)
祭神三女神
石祠 (酉向)
境内 (東西廿二間 南北廿間 周囲一百二十間)
構(カマへ)ノ本 (属本村)
此所ハむかし賊訟競来りし時、此地に煤竹(ススタケ)を立ならへたりしかハ、賊是を見て鑓と思ひて逃かへるにより、かまへの本と名つけたりと里民伝へいへり。
鋸岬里 (民家数戸あり。)
恵美須祠 (在鋸崎)
神璽 (卯向)
境内 (東西八間 南北二間)
小浜 (名のことし。)
弁財天祠 (在小浜)
石祠 (北向)
境内 (東西九間 南北廿間余 周囲六十間)
当社の地ハ小島にして佳景の所なり。
鋸崎城(属本村。里民今ハ城ノ辻と伝。)
此城地、東西一百十七間、(頂上より東道に至り、三十七間、同所より西川原に至り八十間。)南北一百壱間半、(頂上より塩下まで一百三十七間半、同所より舩頭川(フナトウ)川原まで六十四間余。周囲四百七間余、頂上東西三十間、南北三十九間、周囲八十間半。
今案に、往古当国に十四所の要害の崎を定られし時の其一、初山村と或記にしるせり。然れハ此城跡恐らくハ則それなるへし。坪浦の巽の方面岸に高くして、西南の海上遠望の地にて、実に要害のよろしき場所(トコロ)と社見えけれ。
梅津川 (属大川内免)
源、ひをのといふ所より出て、赤身・さいまた・大川内を経て、一千五百余間、坤になかれ梅津にて海にいるなり。
和泉山堤 (属井菅免)
封彊竪廿四間、横七間、水溜三反、水田壱町七反八畝、高拾六石三斗にかかる用水なり。
渡瀬堤
封彊竪廿二間、横六間、水溜壱反五畝、水田三反九畝、高拾三石程にかかる用水なり。
赤田塘 (属若松免)
封彊、竪拾四間、横六間、水溜八畝、水田九反三畝、高八石壱斗にかかる用水なり。
嶽峯 (一名志原岳 志・武•初三村の界、国中第一の嶽にして遠見番所及烽火場を設備たり。)
続風土記云、此岳の腰の周囲志原村に属する所、武生水堺軍越尾の辺より水谷に至り七百廿間、其所より小岳・嶽山・細石を越て初山界双六の三逹の衝に至り八百四十間、初山村に属す所志原界双六の衝より、武生水堺耳取の蔦石に至り七百三十間、武生水村に属す所初山蔦石より志原堺軍越尾の辺に至り一千五百六十間はかり、高九十五間壱尺五寸、(但梅津よりつるへ落にして)亦道程、東双六より馬背・鳴石・上段・社壇・石垣に至り六百五十間、南岳里より同石垣に至り二百廿間余、西蔦石より番所に至り四百間余、北軍越丘より白水・鞍越通・同石垣に至り七百六間、(是等の下尚ありといへども、周囲を腰よりつもるによって是を畧す。又此尾はヘ三武生水村に突出せり。東、真竹尾・江見迄三百六十間はかり、中、白か崎・江見まて三百廿間はかり、西、立尾・三本松まて五百間はかり。凡此岳の勝景たくひなぎ有様、筆紙に尽しかたし。遠近四方の地景、眼前一望の内にあり。春は山川霞立こめけふり渡り、おほつかなく覚へて其気色いと床しく、東風ぬる<吹て梅桜のほころひるころほひ、えんなるよそほひ、えもいはれす。夏ハ風気あっからす、納涼のたのしみいとすくれ、秋ハ地高く境ひろけれハ、四方の気色殊に清くほからかに、月の光り海つらの波にかか やき、須磨・赤(明)石の景にもおさおさおとらし。冬ハ山々に雪のふりつもりて、白妙なるハさなから白銀の世界になれりやとあやしむはかり、すへて四時おりおりの美景ぎハまりなく、人心の佳興も又つきぬ詠なり云々。以上
見上神社 (在三辻、但社地ハ初山に属する所也。)
祭神彦火々出見尊
石祠 (辰巳向)
上屋 (二尺八寸 瓦葺)
石築地 (東西二間壱尺五寸 南北二間壱尺 高四尺八寸)
当社ハ神名帳に所載石田郡見上神社なりとせり。然れとも承応年間の旧記にハ、見上神社湯岳村としるしたり。○神社考云、初山村岳辻にみのへと称せし神あり。因て見上神社なりとして、石社木鏡を納て彦火々出見尊なりとす。実虚是非(三上)をしらす云々。(実にみのへといへるは三村の意なるへし。)
法久塘 (属大川内免)
封彊竪廿八間、横七間、水溜二反、水田壱町八反五畝、高二十壱石六斗四升にかかる用水なり。
鳴滝 (属若松南向)高さ壱丈、横四間。常に水の落る其音高し。
観音堂 (在鳴滝) 堂主南明寺
本尊十一面座像、長七寸
堂 (東向 九尺方 茅葺)
境内 (東西十間 南北六間半 周囲三十八間)
山中に三の碑石あり。其一にハ、南無大慈大悲観世音菩薩、比丘東谷自刻、弟子初山拝建、其二にハ、松東院殿月心宗玉大姉、明暦二丙申年十二月廿五日願主初山性空、其三にハ、坐禅石と彫刻せり。各六七尺の大石なり。実に山中峨々として木立物ふりて、滝ち落る鳴滝の音、谷風木からしにひひきあひて、えもいはれさる佳景の地なり。明暦の頃、性空といふ僧、此所に籠りしと。則右の石塔ハ其時建しとそ。坐禅石、又同し。
津葉山大明神 (在若松岳)
祭神豊料沖尊・猿田彦大神・天細女命
石祠 (辰巳向)
山 (東西十三間 南北十七間 周囲六十二間)
稲荷祠 (同所)
石祠 (同上)
牧大明神 (在牧久保)
祭神保食神
石祠 (未申向)
拝殿 (桁二間半 梁二間 茅音)
庚申 (在社東)
境内 (東西十間 南北二十三間 周囲一百十三間)
若松里 (人家多し。)
薬師堂 (在牧久保) 堂主南明寺
本尊座像、長六寸八歩、寄宿阿弥陀座像、長五寸七分。
堂 (南向 桁三間 梁二間 茅葺)
境内 (東西十二間 南北十五間 周囲四十間)
当堂ハ一云、文禄四乙未年建立、東陽軒といひしとそ。南明庵寺内に建たるを寛永元甲子年丈切(今若松と伝。)へ引移云々。
双六 (スコロク 志原界也。名義不詳。)
双六川
源、娠打より出て、一百六間東になかれ、双六川に至り、夫より五百十八間余辰巳に流れ、樟木川に至り、それより三百四十壱間辰巳に流れ、江川に至り、夫より七十間流れ、当田の海に入。海辺に女男の両池あり。
当田尻 (志原界海辺也。)
並(ノ)儀 (一名産崎)沖にところ島あり。松なと生立て佳景の地也。
水浜 (一名田尻)
太郎か浦 (同し浜の内なり。)
黒浜 (前のつつき也。石黒けれハ然名つくなるへし。沖に大黒瀬・かむろ瀬・釜蓋瀬・分銅瀬・秤瀬なといへる数多の瀬あり。)
釜蓋 (東西十間 南北十三間 高三間 海の深さ四尋)
浜を去こと四十間、此瀬、常に不浄の人え揚らすといへり。
立花(タチハナ)崎 ((太カ)大郎浦の上岡を伝。)
遠見野 (属若松)
此野、東西一百十八間、南北一百間、東下に遠見石といふ石あり。(竪二間二尺余、横ニ間壱尺余、周囲七間壱尺余、高壱丈七尺五寸余。)申酉より寅卯に向へり。石上に足跡といふ所二つあり。(立花崎より亥子に去こと一百七十間、赤鬼の指出といえる所あり。)里俗伝云、昔百合若大臣、遠見石に上りて遠見し給時、鬼の指出といふ所より不図鬼出て殺さる。又立花崎ハ鬼の立たる所なりと。此所よりハ筑肥二前の山嶽、眼前に見渡されて、眺望至景の地なり。故に名とせしものならむ。
初瀬川
源、初瀬より出て二百五十間流れて海に入。
鏡嶽大権現 (在初瀬 村中の産神なり。例祭九月十九日)
祭神伊拝冊尊・速玉男命・事解男命
又吾勝尊・伊拝諾尊・伊拝冊尊
正殿 (酉戌向 桁八尺 梁壱丈一尺 三方縁附 柿葺)
祝詞舎 (桁三尺七寸五分 梁八尺 板葺)
拝殿 (桁二間半 梁二間 瓦葺)
石祠 (在拝殿前 所祭中通村彦兵衛霊)
社地拝殿の前庭横十間、左右危うき滝なり。拝殿の前より石鳥居まて九十間、石階あり。
石鳥居 (去拝殿酉戌九十間)
高壱丈二尺 横八尺 貞享四丁卯年十一月建立
境内 (東西一百六十五間余 南北ニ百九十間余 周囲七百六十三間余)
中宮跡 (去石鳥居南十間 今社なし。)
行宮所 (去鳥居南―町四十四間半)
伝云、当社最初ハ熊野三神を所祭にして、後に彦山三神を遷し奉り、六社とせしなり。其故ハ中葉当州中通村(今ハ物部)に、彦兵衛といへる信心ならひなき農夫ありて、平生に豊前国田川郡彦山三所大権現に夫婦ともに厚く信心し、おりおり参詣てしに、既に老年(トシオヒ)て彼山(ヒコサン)に詣時、夢中に神現れ給ひて誨て曰、我ハ是彦山権現なり。汝我を信仰(アヲキ)て当山(ココ)に詣けること年久し。我又汝を擁護(メクム)。されとも汝か思ふことく、海路はるかにして年既に老たり。故何月何日の朝、波瀬浦白瀑布の中崖にある所の松の枝に、我同体の鏡を掛置へし。汝これを取て東嶽に新殿をつくりて、三岳三所大権現とあかめ奉り、月々一度、或は日々一度参詣(マウテ)なハ、彦山に参詣するに同し心のまにまに三嶽、に一生参詣つへし。彦兵衛夢覚て不測の思ひをなし、国にかへり着しより直(タダチ)に波瀬浦の白滝に至りて仰き見るに、神誨のことく白滝の石間に小松一株あり。其枝に円鏡一面、皓々としてかかりまします。(其滝の高廿余間人不通所なり。)故人を釣りて是を取頂、東嶽に遷し奉りて三嶽三所と称奉(タタエ)る。其鏡、必人作にあらすといへり。神通を以て虚空より降し給故に曇りなく光耀たり。実に真澄鏡とも称すへぎか。然しより以来、鏡嶽権現と称へ六座と奉崇、例年二月十五日・九月十九日二度祭礼ありて、国人群参、老若市をなす。さて彼彦兵衛夫婦神退の後、其子又大神の霊夢を蒙り、考妣の石璽を作り石階の左右に建。然るに文禄元年壬辰豊臣公兵を遣して朝鮮を征伐の時、逆風によりて兵数日初瀬浦に滞訟せり。其時あなつりて石璽等を社前の崖より投落したるを、漸々一基尋出して社の傍に置けるとそ。かく悪徒横行するによりて、大権現の御霊形を初山の西八幡に遷し奉り、日夜産子八人をして守護しめ、朝鮮凱旋の後、神主御霊形を本社に還幸なし奉る。凡て御社地ハ嶽上にして三方ハ海めくり、一方ハ北山につらなれり。上下万民尊信せさるハなし。神明も又擁護し給ハすといふことなし。○里俗云、中葉日高信助、天狗のかたらひをなさむと、鏡嶽に百夜籠れり。其満夜に何かハしらす、大なる人出現す。信助驚ぎ刀を抜けれハ消失しとそ。今北山の頂上に城と云所、少し石垣を築たる跡あり。是、信助の籠し所となんいひ伝へける。○神社帳云、初瀬鏡嶽三所権現(本社)古来勧請年数不云々。後陽成天皇慶長十四年己酉仲陽、御殿造御立。日高玄蕃頭信喜在判の棟札ありといへとも、文字不詳。大宮司納田神左衛門判、後光明天皇慶安元戊子六月、宝拝殿再建、国主源鎮信朝臣在判、神主長田伊豆守清重の棟札あり。
後西天皇寛文元年三月、宝殿再建、鎮信君花押、神司長田宮内の棟札あり。
霊元天皇延宝五丁巳年四月、宝殿再建、国主源鎮信君在判、祠官榊原淡路の棟札あり。
東山天皇元禄十三年二月廿四日夜より三月卅日に至り、大地震の時、鏡嶽上宮の社地崩る。故今の地をならして、六月より宝拝殿造営はしまり、八月に至て成、十三日上棟あり。子時国守源任朝臣花押、祠官原刑部の棟札あり。(是今の社地に建し始也。上の社地を古社という。頂上に僅のこれり。)
当時神領二石の国状あり。
元和三年十二月廿八日隆信朝臣
寛永二年十二月廿八日同君
同二十年正月十一日鎮信朝臣
元禄九年正月廿六日任朝臣
享保七年四月一日篤信朝臣
寛延二年十一月十八日誠信朝臣
告文二通 諸社に同し。
毎歳二月十五日祭礼あり。国中の老若参集、近浦の茶店来りて市をなす。九月十八日夜大神(北山宮にて修奏あり。)十九日国主の代参奉幣ありて、神輿を浜の行宮所に渡御なし奉り、し奉る。
(或人の歌に)彦の名を御影にうつす鏡岳くもらぬ代とそ仰く諸人
天竜寺文礼奉納の詩歌あり。
宝物
日高信助奉納甲冑あり。
北山宮 (在北山)
祭神赤土命・大綾津日神・大地海原諸神
御殿 (南向 桁三尺 梁三尺一寸五分 板葺)
上屋 (桁七尺五寸 梁五尺七寸五分 茅葺)
拝殿 (去御殿三間桁四尺 桁三間 梁二間 茅葺)
境内 (東西一百廿壱間半 南北三百五十五間 周囲八百九間)
海鰤(チヌノ)浦
北山宮の西の入江をいふ。海卿といふ魚、遊へり。故に名とせり。
初瀬浦 (鏡嶽に相対せり。石鳥居より浦居初瀬浦まて二百二十五間、内海深四尋)
此浦、北西風隠にして、船泊の至てよろしぎ湊なり。故旅訟大方二三艘、或ハ五六艘ハ出入たえせす。よって此浦に舩見役あり。
恵美須祠 (在初瀬浦)
速瓢(ハイチ)崎山
此山と鏡岳と北山と三山相対してかなへのことし。故に三嶽と称す。其地、東西二町四十間、南北五町五十二間、周囲拾壱町三十二間也。三山ともに諸木繁茂して物ふりたる所也。
海豚※(イルカ)鼻 (一名大崎)※旧漢字のイルカは出なので現在の漢字に変更
国の南の出岬なり。故に大崎とも名つく。又海豚※といふ魚に能似たり。よて名とすともいへり。
初瀬より此所まて浦廻り九百七間。凡て此内を初瀬浦といふ。(但し浦口小山崎より大崎まで指渡六十三間)此岬、印通寺浦と郷(ノ)浦との洋堺なり。出崎の岸に二の穴あり。(東の穴、入四間許、口の亘り三尺方許り、丸く、西の穴、入三間余、口の亘り壱尺八寸許り。)各相去こと二間半許り、共に口南に向へり。俗江豚(ヒトイルカノ)鼻の巣といへり。此所より勝本小櫛山の岬を南北の方位とせり。
江豚鼻野 (東西ニ町半余 南北四町余)
手長木(タナキ)丘
此丘、東ハ坂のよけに限り、西ハ当山川にかきり二百廿二間余、南ハ横重道に限り、北ハ鞍掛に限り一百廿四間、頂上に小松原あり、其中に周匝九間余、高五尺余、小石を以て円く築ける所あり、松桜なと生たり。里老伝云、むかし手長男神社を埋め奉りし所なりと。此説信かたし。然れとも手長男社の旧地なるや、石田郡なれハいかがあらん。近世手長姫の社を奉斎、石祠を建たり。南向亦此丘の下り海に臨みし地を藤原となんいひける。雅たる名を負しし所なり。
平床里
民居(イへ)あり。
当山塘 (属塩屋免)
封彊、長拾八間、横六間、水溜壱反、水田八反、高拾四石壱斗にかかる用水なり。
堤神 (在堤辺)
石祠 (申西向)
田代福石
此石、竪壱丈三尺、横六尺五寸、周匝五間六寸五分、高壱丈二尺五寸、酉戌向、其上に頭のことき別石あり。いかなる故にて福石とはいへるにや、詳に伝へす。
具見(グミノ)丘 (湯舩の里の末にあ)
此岳、村中第二の高き所なり。東西二百五十間はかり、南北一百間はかり、四方の遠望あり。
湯舩里 (名義しれす。)
釈迦堂 (在湯船)
本尊座像、長四寸
堂 (卯辰向 桁二間 梁九尺 茅音)
当堂ハ壱岐廻云、是ハ員の外也。性空といふ道心者、近頃立たるよしとしるす所也。
今按るに、性空といふ道心ハ、明暦の頃の者也。其ハ上鳴滝観音の所にてしらるる也。然れハ此堂も明暦の時分に建立せしならむ。
稲荷社 (在由舩)
石祠 (東向)
津甫
大武庄箆原郷に属し、東ハ初山堺に限り、西ハ武生水界木本に限り十五町はかり、南ハ海に臨み、北ハ岳峯に限り十八町はかり、周囲二里はかり。坪と名付たる故ハ入江十二町、横四町はかり、口の広さ一百間はかりの曲江にして、形勢壺のことし。よて名とせしなるへし。○海東諸国記に、頭音甫浦(四十余戸)としるす所なり。今民戸九十姻ありといへり。元ハ津甫村とて一村なかと、今は初山村に属せり。然れとも四方周囲の町間ハ別にあけたれは其によれり。名産人参なり。其味殊によろし。
壺浦 (曲江の北の浜辺を云。民戸十八姻あり。)
鎮守大明神 (在坪浦金崎)
祭神経津主神・武甕槌神・磐裂神・根裂神・磐筒男神・磐筒女神
御殿 (辰向 桁六尺四寸五分 梁壱丈 板葺)
上屋 (桁二間半 梁三間 茅葺)
廊下 (桁五尺五寸 梁六尺五寸 瓦葺)
拝殿 (桁三間 梁二間 茅葺)
石鳥居 (去拝殿 高壱丈七寸五分 横壱丈八寸五分 貞享四卯年建立)
境内 (東西三十五間 南北三十間 周囲一百余間)
当社ハ鏡嶽社の摂社にして、津甫村の鎮守なり。
祇園社 (同所)
乙宮祠 (同所 共に相殿にまします也。)
小祠 (辰向)
上屋 (桁九尺壱寸五分 梁七尺 茅葺)
小水大明 (在同社地)
小祠 (卯辰向)
恵比須祠 (在同浦)
江淵山竜雲寺 (元云江上山 在同浦上)
本尊地蔵大土座像、長壱尺二寸、祠堂本尊阿弥陀坐像、長八寸七分。
客殿 (辰向 桁五間 梁三間 茅葺)
廊下 (桁九尺 梁同上 瓦葺)
庫裡 (桁五間半 梁三間半 茅葺)
境内 寺地 (竪八間 横七間)
当寺ハ如意山末派なり。梵刹帳云、江上山竜雲寺、天正十六戊子年元黄と云僧開基云々。
愛宕祠 (在境内)
石祠 (丑向)
当社ハ竜雲寺鎮守なり。
観音堂 (在北山) 堂主竜雲寺
本尊立像、長二尺六寸五分、脇士不動・多門各立像長(不動壱尺 多門九寸)
堂 (未向 二間)
小方山 (粉形トモ書 属坪村)
海辺につらなりて一円小松原也。佳景の地なり。此山の土色白くして壁土によろしぎとて、国中は更なり、近国まても名高く是を用ゆ。
粉形海
坪より鷹の巣浜まて三百八十四間半、それより粉方の浜まて七百九十間、東もうたるより西一つ石に至り小方といふ。坤に向ふ裏海なり。平島・金城・ニ神島・生月大鳴(島カ)・平戸しまよく見ゆ。
万葉十六
紫 乃粉油乃海爾潜 鳥珠潜 出者吾玉爾将為(ムラサキノコ カクノ ウミニ カックトリクマカツキイテハ アカクマニ セム)
牧大明神 (在立場久保)
石祠 (南向)
境内 (東西一百六間 南北十九間 周囲二百六十間)
当社ハ神社帳に神崎牧大明神とのする所也
雲林(クモハヤシ)堤 (属坪免)
封彊長廿四間、横七間、水溜壱反、水田三町八畝、高廿壱石八斗七升にかかる用水なり。
一石浜
海浜大石(高壱丈二尺余 周匝り三丈)あり。故に名とせり。
臍崎 (海辺にさし出たる崎也。)
円臍崎(マルホソサキ)
地を去こと廿間也。東西廿五間、南北五十間、周囲一百五十間、高七間二尺の島也。松樹生茂れり、形ち臍のことし。
名切川 (属堺免)
源、木の下より出て、聖母田を経て、名切にて面に入、凡四百間余。
木下堤 (属堺免)
封彊竪廿六間、横八間、水溜二反五畝、水田二町六反四畝、高廿七石にかかる用水なり。
一銭替山 (属坪)
此山、方二町はかり、里民云、むかし凶年ありて万民餓死に及ハむとする時、国主松苗を植しめて木ことに一銭をたまハりきと。故に此名ありとそ。かかる名所、国中に多くあり。
松浦川 (同上)
源、中原といふ所より出て中川を経て、一百五十六間酉戌に流れ、武生水道の渡りに至り、それより中山・四支田を経て五百間余流て、川原瀬にて海にいる。
水門田(スイモンタ)堤
封彊竪十五間、横六間、水溜壱反五畝、水田六町壱反、高四十六石九斗七升にかかる用水なり。
山神 (在梅津)
石祠 (未向)
境内 (東西三十二問 南北六十間 周囲一百十間余)
山神川 (属井菅)
源、鳴滝より出て、いすかを経て三百間余なかれ、山神の下にて梅津川と落合。
(属塩屋免)